菜根譚を読む
○初めに
 中国の古典は、歴史書といい、文学作品といい、哲学書、処世訓、はては兵法といい、わたしたち日本人にとって教養の源でした。その長い歴史の中で、数々の古典が激しい変化の過程で生まれ、人間という生きものを厳しく見据えています。
 現代は混迷の時代とも、閉塞の時代だともいわれます。この変化の激しい、見通しの立てにくい時代に、わたしたちはどう対応し、自分の人生をどう運転していったら良いでしょうか。
 また、わたしたちは最近ようやく失ったものの大きさに気づき、その穴を何によって、どのように埋めるべきか、戸惑っています。
 ……ありあまる物にかこまれたむなしい心。
 ……合理性だけでは捉えにくい人間の心。
 問題は、この人生をどう生きるか、ということです。今、わたしたちに切実に求められているのは、人生観の見直しであり、発想の転換でしょう。

 これから紹介する『菜根譚』という本は、その点で示唆するところがとても大きいように感じます。『菜根譚』は、すぐれた「人生の書」として愛読されてきました。そこに心の充足を見いだしてきた人々はきわめて多数です。

 ここで、少しずつではありますが、この『菜根譚』をご紹介させていただきたいと思います。

1.書名
 菜根という語は、宋の汪信民の「人常に菜根を咬みえば、すなはち百事なすべし」によると言われます。この語は南宋の朱子が編纂した「小学」に、敬身の実例を列挙した末尾に書かれています。
 「菜根」とは読んで字のごとく、菜っ葉や大根のような粗食のことです。いや、むしろ野草の根っこの部分で、食べられないことはないが、普通なら切り捨てられて顧みられることがないクズの部類にも属するでしょう。ところが、ここに実は世俗のものが知らない深い味わいがある、と言っているのです。

2.著者と内容
 明の万暦年間(1573〜1619)の人、洪自誠によってのこされた随想集です。前集(225項)と後集(134項)に分かれ、前集では主として社会生活の心得が説かれ、後集では主として世を捨てて風月を友とする楽しみが語られています。
 この『菜根譚』は体系的な哲学書ではなく、思いつくままに書きちらした随想集です。思想的には儒教を基本としながらも、老荘や禅も色濃く影響しており、すこぶる包容力に富んでいます。しかし逆に、雑学的で首尾一貫しないという見方もあるでしょう。
 そうしたことから菜根譚は、学問的な研究の対象としてはあまり重んじられていませんが、実に広い愛読者をもっているという点では、数ある中国古典の中でも際だった存在です。
 『菜根譚』にもられた洪自誠の思想は三つの側面を持つものだと言えます。
   1.潔癖な倫理観。
   2.のびやかな風雅の心。
   3.したたかな処世の知恵。
 この一見して矛盾しかねない視点が、洪自誠という一個の人格のうちにみごとに統合され、ときと場合いに応じて自由自在に使い分けられているところがこの書のおもしろさだと思います。
 深く考え込まず、いこいのひととき、気に入った部分を眺め、または音読するだけで、心はしばし塵の世を離れることができる…そういった読み方もあって良いのではないでしょうか。


○本文
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1.道徳に棲守する者は、一時に寂寞たり。権勢に依阿する者は、万古に凄涼たり。達人は物外の物を観じ、身後の身を思う。むしろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄涼を取ることなかれ。

 人としての道をしっかりと守っていれば、かりに不遇な状態に陥っても、一時のことにすぎない。権勢にこびへつらえば、かりに得意の状態にあっても、長続きしない。
 道を極めた人物は、世俗の価値にとらわれず、死後の評価に思いを致す。一時は不遇な状態に陥っても、人としての道を守って生きるほうがはるかに賢明ではあるまいか。

 現代は個性化の時代だといわれながら、個性化しているのは消費生活のあれやこれやの好みだけで、生き方の根本となると体勢迎合のおりこうさんばかりが目につきますね。そして”道徳に棲守する”信条の持ち主は、旧人類だ、古代人だと、変わり者扱いされがちな昨今です。
 しかし、真に価値のある人生をめざすならば、少数者となることを恐れてはいけません。流行に乗った追随者たちは世の中の好みが変わればたちまち忘れ去られてしまいます。それに反して、生涯を不遇のうちに終わっても、今なお敬慕の的となっている先覚者の数も少なくありません。
 私たちの周囲にも、在職中は煙たがられて出世が遅れていたが、今となって思うと、その人に教えられたことが一番大きかったと感謝する先輩が何人かいるのではないでしょうか。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第5項
5.耳中常に耳に逆らうの言を聞き、心中常に心に払(もと)るの事あれば、わずかにこれ徳に進み行いを修むるの砥石(しせき)なり。もし言々耳を悦ばし、事々心に快ければ、すなわち、この生を把りて鴆毒(ちんどく)のうちに埋在せん。

(意味) たえず不愉快な忠告を耳にし、思い通りにならぬ出来事をかかえていてこそ、自分を向上させることができる。
 耳にこころよいことばかり聞かされ、思い通りになることばかり起こっていたら、どうなるか。自分の人生をわざわざ毒びたしにしているようなものだ。

(解説) 耳に入るのは耳の痛い言葉ばかり、することなすこと思うようにいかないという状態の中でこそ、人間は磨かれるものです。反対に、耳に入るのは甘いお世辞ばかり、何事も思いのままという環境ならば、知らぬまに猛毒に侵されて一生を台無しにするでしょう。「鴆毒」とは、鴆という鳥の羽をひたした酒を飲むと、たちどころに死ぬという事から出た言葉で「猛毒」の意。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第100項
100.逆境のうちに居れば、周身みな鍼ぺん(石偏に乏)薬石にして、節を砥ぎ行を砺(みが)きて而して覚(さと)らず。順境のうちに処れば、満前ことごとく兵刃戈矛(へいじんかぼう)、膏を銷し骨をび(广のなかに、林の下に非)して而して知らず。

(意味) 苦境におかれているときは、身の回りはすべて良薬ばかり、心も行動も知らぬままに磨かれる。安楽な状態のもとでは、鋭い武器に囲まれているようなもの。肉を切られ、骨を刻まれていながら、それには気がつかない。

(解説) 人は逆境で鍛えられ、順境では堕落するとここでも言っています。
 1面の真理として、こういう考え方はどうでしょう。逆境におかれながらくじけず、いじけず、みずからの精神を磨いていくには、なみなみならぬ精神の強さが求められる。あまりの逆境が、人を卑屈にし、意欲を失わせてしまう。一方、恵まれた順境のもとにあっても、きちんとした価値観と強い意志をもっている人は、置かれている好条件を生かすことによって前進を続けていくことができる。これは天の邪鬼的な見方ですが、そういう見方を踏まえて、なお更にこの第100項の深い意味があるように思います。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第23項
23. 人の悪を攻むるは、はなはだ厳なることなかれ、その受くるに堪うることを思うを要す。人を教うるに善を以てするは、高きに過ぐることなかれ、まさにそれをして従うべからしむべし。

(意味) 他人の悪を責めて善に向かうようにするのは、たしかによいことであるが、その人の悪を責めるに、あまり厳しすぎてはならない。その人が、叱責のことばを受け入れることができるかどうかの程度を考える必要がある。
 また、人に教えて善をさせるのも、あまりに高すぎてはならない。その人が、わが言うことに心服して、実行することができる程度を考えて、従わせるようにしなければならぬ。

(解説) 批判と教訓の心得です。人を批判するにあたって、まず考えねばならぬことは、相手がそれを受け入れて、過ちを改めてくれるにはどうしたらよいか、ということでしょう。
 しかし、とかく他人の欠点が目について、言わずにいられないというときは、この第一の前提が忘れられがちです。相手を納得させるのではなくて言い負かすためとなっては、批判ではなくて非難です。ああじゃないか、こうじゃないか、この前だってああだった等々、ヒステリーの母親が子供を責めたてるようにとことん追いつめねば気のすまない向きが多いのは困りものです。
 このあたりの心得は、上から下への批判、教育だけでなく、下から上への提言、忠告にあたっても忘れないようにしたいものです。うっぷんばらしのための批判には、実りは期待できません。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第219項
219.人を責むる者は、無過を有過の中に原ぬれば、すなはち情平らかなり。
    己を責むる者は、有過を無過の内に求むれば、すなはち徳進む。

(意味) 人の過失を捜して責めるときには、過失の中で過失でない点を尋ね出してやれば、責められた人も不平の心を起こさない。
 おのれの過失を捜して責めるときには、過失のないと思う中に過失を捜し求めて反せすれば、自分の修行は段々に向上する。

(解説) この洪自誠の主張と同義のことを、幕末期の儒者佐藤一斎先生はこう言っています。
「人の過失を責むるには十分を要せず。宜しく三分を余し、彼をして自棄に甘んぜず、以て自新せんことを求めしむべし」
 この『自新』ちは、まことに名言です。なぜならがば”過失”に母親がいるとすれば、それは”慣れ”であり、現状に慣れきってみずからを新しくする努力を怠るところに、過失は生じるからであります。
 また『自新』への努力に欠けている自分を反省する際には、後半の「自分に過失がないときにも、どこかに過失がないかとみずから探し求めるようにすることだ。そういうきびしい態度に徹していれば、人間的に一段と進歩することができるだろう」という言葉が大いに参考になることと思われます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

前集 第190項
190.むしろ小人の忌毀するところとなるも、小人の眉悦するところとなることなかれ。むしろ君子の責修するところとなるも、君子の包容するところとなることなかれ。

(意味) つまらぬ人間から憎みそしられるのはよいが、彼らにこびへつらわれることがあってはならぬ。
 りっぱな人物からきびしく責められるのはよいが、そのお情けを受けるようになってはならぬ。

(解説) つまらぬ人間からは嫌われたほうがよい。彼らから喜ばれるようになっては困り者です。
 すぐれた人物からは厳しく責められたい。見放されて寛大にされるようではおしまいです。
 人は誰でも、自分の人気が気になるものです。ちやほやされていい気持ちがしないとすれば、よほどの人物といえるでしょう。しかし、くだらない取り巻き連中しか周囲に寄せつけていないとすれば、その人物のレベルも知れたものです。あれはごまのすりがいがなくて、なんとなく苦手だと煙たがられるようなら、ひとかどの人物といえましょう。
 指導を受ける立場からいえば、小言を言われるうちが花だと心得るべきでしょう。
 こいつにはなにを言ってもむだだと愛想をつかされた部下や弟子が、このところうるさく言われないのは、おれの値打ちがわかってきたからだろう……と思うなど、それこそ漫画ですね。
 上司と部下、師と弟子の間には、よい意味での火花を散らす緊張関係が必要でしょう。向上の意欲と育てる熱意がぶつかり合ってこそ成長が期待できるのです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第50項
50. 福は事少なきより福なるはなく、禍(わざわい)は心多きより禍なるなはし。ただ事に苦しむ者のみ、はじめて事少なきの福たるを知り、ただ心を平らかにする者のみ、はじめて心多きの禍たるを知る。

(意味) なにが幸せかといって、平穏無事より幸せなことはなく、なにが不幸かといって欲求過多より不幸なことはない。
 しかし、あくせく苦労してこそ、はじめて平穏無事の幸せなことがわかり、心を落ち着けてこそ、はじめて欲求過多の不幸なことが理解できるのである。

(解説) 人生の幸不幸を分ける判断基準はさまざまでしょうが、洪自誠はここで「事がすくないこと」と「心が平らかなこと」を幸福の最大の要件としてあげています。
 しかしこれは、少し引っ込み思案の考えのような気がします。人間、この世に生きていくからには、ある程度の外からの刺激は心身の活性化に不可欠だし、欲望がすっかり枯れてしまっては生きている甲斐もありません。
 そう思っても一度読み直してみると「ただ事に苦しむ者」の句が目に入ります。おそらく筆者は人生の後半に入って、みずからは望みもしなかった権力争いの渦中に巻き込まれて心身ともに疲れはて、そこからのがれて、初めて「事少なきの福」を得たのであろう、と推察されます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第71項
70. 福は徼(もと)むべからず、喜神を養いてもって福を召くの本となさんのみ。
    禍は避くべからず、殺機を去りてもって禍に遠ざかるの方となさんのみ。

(意味) 幸福は、求めようとして求められものではない。ただ楽しみ喜びの心を養い育てて、招き寄せる用意をするばかりである。
 災禍は避けようとして避けられるものではない。殺気だった心を取り去ってわざわいに遠ざかる方法を工夫するばかりである。

(解説) これはかなり道家の影響の見られる項で、一見はなはだ消極的に見えますが、じつは、そのなかにしたたかなしぶとさを秘めているのが特徴です。
 「人は幸福を探しはじめるとたちまち、幸福を見つけられない運命に陥る。しかし、これには不思議はない。幸福とは、あのショーウィンドーの中の品物のように、好きなものを選んで、金を払えばもって帰れるというものではないからだ」(アラン『幸福論』)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第8項

 8. 天地は寂然(せきぜん)として動かずして、しかも気機は息(や)むことなく停(とど)まること少(まれ)なり。
    日月は昼夜に奔馳(ほんち)して、しかも貞明は万古に易(かわ)らず。
    故に君子は、間時(かんじ)には喫緊(きつきん)の心思あるを要し、忙処(ぼうしょ)には悠間(ゆうかん)的趣味あるを要す。

(意味) 天地は動かずに静まりかえっているが、陰陽の気はやむことなくはたらいている。日月は昼となく夜となくめぐっているが、それが放つ光芒は永遠に変わらない。
 これが自然の摂理であるが、人間についても同じ事がいえる。
 平穏無事なときには万一の場合に備えることを忘れず、いったん有事のさいには悠々たる態度で対処するように心がけなければならない。

(解説) 人はとかく環境に流されやすい生き物です。ひまなときにはでれーっとしてただ時間をつぶすだけ。忙しいときは仕事に追いまくられて周囲に目を配るゆとりを忘れてしまう。
 しかし、それでは、仕事も遊びも、本当に充実させるのは難しいのではないでしょうか。自発性、創造性をもって仕事にとりくんでいる人だったら、通勤の道すがらでも、休日に庭の草むしりをしているときでも、仕事の場では出てこないようなアイデアがふっと湧いてくることがあるはずです。
 期限にせかされてシャカリキにがんばっている最中でも、ひょいと見上げた窓の外に広がる雲の景色に季節のうつろいを感じて、ゆとりを取り戻せるかもしれません。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第83項

83. 風 疎竹(そちく)に来たる、風過ぎて竹に声を留めず。
    雁 寒潭(かんたん)を度る、雁去って潭(ふち)に影を留めず。
    故に君子は事来たりて心始めて現はれ、事去って心随(したが)って空し。

(意味) 風が起これば竹の葉はさわぐが、吹きやめばまたもとの静寂にもどる。雁が渡るとき淵はその影を映すが、飛び去ればもはや影をとどめない。
 君子の心も、事が起こればそれに対応し、事が過ぎればまたもとの静かさにもどるのである。

(解説) 何事かをなし遂げようとするならば、ねばり強い執着、執念を持続させねばなりません。しかし、ある事物への固執は人の視野をせばめ、心の自由な働きを失わせて、精神の動脈硬化を招きがちです。自分ではゆるがぬ信念と自負していても、外から見れば偏狭な自己満足に過ぎないという例は周囲にたくさんあります。
 このような固執癖が対人関係にもちこまれると、よきにつけ悪しきにつけて度外れしたしつこさとなって毛嫌いされるが、当人にはなぜ自分が嫌われるのかわからないという気の毒な結果が待っています。
 ときとして、またことによっては、一点注視、一事専念も大切ですが、この項のような自在の心もまた失いたくないものです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 後集 第117項

117. 人生はなはだ閑なれば、すなわち別念竊(ひそ)かに生じ、はなはだ忙なれば、すなわち真性現われず。
     故に士君子は身心の憂いを抱かざるべからず、また風月の趣に耽(ふけ)らざるべからず。

(意味) あまり暇がありすぎても、つまらぬ雑念が頭をもたげてくるし、あまりに忙しすぎれば、こんどは本来の自分を見失ってしまう。
 してみると君子たるもの、一面では身心の苦労はあったほうがいいし、また一面では風流を楽しむことも忘れてはならない。

(解説) ここにいう「身心の憂い」とは、肉体的および精神的な勤勉さのことでしょう。みずからの社会的使命を自覚し、それを果たすための労を惜しまぬことは、この世に生き、しかも人を指導する立場にある者としては当然の義務です。
 しかし、ただあくせくとかけずり回るだけでは、自分をかえりみ、心を遊ばせてリフレッシュすることができず、人間としての包容力に欠けてしまいます。ときとして悠々たる境地に浸ることは、重い責任を負った人にこそ必要ではないでしょうか。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 後集 第62項
    古徳伝、竹影掃階塵不動、月輪穿沼水無痕。
    吾儒伝、水流任急境常静、花落雖頻意自閑。
    人常持此意、以應事接物、身心何等自在。

   古徳伝う、「竹影、階を掃うも塵動かず。月輪、沼を穿つも水に痕なし」と。吾が  儒云う、「水流、急に任せて境常に静かなり。花、落つること頻りなりといえども意  おのづから閑なり」と。人常にこの意を持して、以って事に応じ物に接すれば、心身なんらの自在ぞ。

(意味) 昔の名僧が言っている。「竹の影が縁先を掃くが、塵は少しも動きはしない。月の光が沼の底までさしこむが、水に跡を残しはしない」と。
 わが国の儒者も言う。「水が激しく流れていても、あたりは常に静かである。花がしきりに落ちるけれども、それを眺めている心は自然にのどかになる」と。
 こんな気持ちであらゆる事に対処できれば、なんと身も心ものびのびすることであろう。

(解説) この心境は、漱石の『草枕』の一節で、主人公の画工と禅寺の和尚の問答を思い出させます。
 「あの松の影をご覧」
 「綺麗ですな」
 「ただ綺麗かな」
 「ええ」
 「綺麗なうえに、風が吹いても苦にしない」


 後集 第67項
    魚得水逝、而相忘乎水、
    鳥乗風飛、而不知有風。
    識此、可以超物塁、可以樂天機。

   魚は水を得て逝き、而して水を相忘れ、鳥は風に乗じて飛び、而して風あるを知ら  ず。これを識らば、もって物塁を超ゆべく、もって天機を楽しむべし。

(意味) 魚は水の中を泳ぎまわりながら、水の存在を忘れている。鳥は風に乗って飛びながら、風の存在に気がつかない。
 この道理を悟れば、外界によって心を煩わすこともなく、天地自然のうちに楽しむことができるだろう。

(解釈) 「水を相忘れ」の句は、『荘子』に拠っているようです。
 荘子は、人為的な道徳や義理にしばられていやいや助け合う偽善的な生活より、天地の道そのままに生きる自由をたたえていますが、この洪自誠の言葉にはそれほどの鋭さはなく、自然の趣へのすなおな羨望が込められていると読めます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 後集 第4項
    歳月本長、而忙者自促。
    天地本寛、而鄙者自隘。
    風花雪月本間、自労攘者自冗。

   歳月もと長く、しかして忙(せわ)しき者みずから促(せま)れりとす。天地もと寛(ひろ)く、しかして鄙(いや)しき者みずから隘(せま)しとす。風花雪月もと間(しずか)、しかして労攘の者みずから冗なりとなす。

(意味) 歳月というものは、元来、永久無限で長いものであるが、気の忙しい者が、朝から晩まで仕事仕事と動きまわるので、自分自身で短いものにしてしまっている。
 天地というものは、元来、広大無辺で広いものであるが、心ねのいやしい者が、方々に不義理を重ねたりして、自分自身で狭いものにしてしまっている。
 春の花、夏の風、秋の月、冬の雪と、四季折々のながめを楽しむことができて、元来、その暇を与えてくれるものであるのに、あくせくと過ごしている者は、それをながめる暇もなくて、自分の心からむだでわずらわしいものと決めてしまっている。すべて、その人の心の持ち方によるもので、歳月は長く天地は広く、四季折々に風雅の楽しみは尽きないのである。

(解説) 現代のサラリーマンには、ワーカホリック(働き中毒)にかかった人が少なくないようです。始終、仕事に追い回されているうちに、それが普通の状態となって、たまに暇が出来ると時間をどう使ってよいかわからず、不安でしかたなくなるという。
 近ごろはそれが子供の世界にまで広がって、塾も、稽古事も、家族との外出もない日曜日は、何をしていいかわからないから嫌いだという子が多いとのことです。
 いずれも周りに追い回されているうちに、自分は本当にどのように生きたいのかがわからなくなった悲劇ですね。価値ある人生を送るためには、まず自らの姿勢を確立することが先決だと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 後集 第5項
    得趣不在多、盆池拳石間、煙霞具足。
    會景不在遠、蓬窓竹屋下、風月自 。

   趣を得るは多きにあらず、盆地拳石(ぼんちけんせき)の間にも、煙霞(えんか)は具足す。景を会(え)するは遠きにあらず、蓬窓竹屋(ほうそうちくおく)の下にも、風月はおのずから (はる)かなり。

(意味) 物の風情をうるということは、ごたごたと道具だてをにぎやかにしなくてもよい。盆のような小さな池や拳ほどの石をならべただけでも、自然の風景がそなわって十分にながめられる。
 また、心にかなった景色を求めるためには、わざわざ遠くまで出かける必要もない。よもぎの生い茂った窓や竹屋根のあばら家でも、さわやかな風も吹き、清らかな月の光もさして、自然にのどかである。

(解説) 雪山を染める朝日や、大海原に沈む夕日のようなスケールの大きな光景に触れたときの感動は格別ですが、それは常日頃に体験できることではありません。うさぎ小屋とコンクリートの箱を往復する毎日の暮らしの中でも、悠々と心を遊ばせる工夫を考えましょう。
 その点韓国の某氏に「縮み志向の日本人」と評された私たちは、洪自誠に教えられるまでもなく、身近な小自然をシンボルとして大自然の趣を楽しむのは得意です。
 庭づくりも、盆栽も、生け花も、さては料理の盛りつけに至るまでが、自然の風光の再現であり、大きな広がりを感じさせるものがよしとされています。
 機械文明主導の欧米型文明社会にあって、私たちが親しんできた象徴の文化が見直されているのも偶然ではないでしょう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第16項
    寵利毋居人前、徳業毋落人後。
    受享毋踰分外、修為毋減分中。

   寵利は人の前に居ることなかれ、徳業は人の後(あと)に落つることなかれ。
   受享は分の外に踰(こ)ゆることなかれ、修為は分の中に減ずることなかれ。

(意味) 人から受ける寵愛や利益に対しては、他人より先に取ろうとしてはならない。そうしないと人の怨みを買うことになる。しかし、世のため人のためになる道徳や事業に対しては、進んでこれをなし、人に遅れを取るようなことがあってはならない。
 人から受ける物については、分相応を越えてはならないが、自分のなすべき修行は、分以下にへらすことなく、より以上に努力しなければならない。

(解説) 人情の常は、「仕事はおおぜいで、うまいものは一人で」ですが、これはその反対です。
 名誉、利益が得られるときは、できるだけ後ろのほうに引っ込んで遠慮しなさい、ひとさまのためになる仕事なら尻込みせず率先して力を尽くしなさいというのです。
 これを単なる道徳的なお説教としてだけみては面白くありません。洪自誠はこの心得を世渡りのノウハウとして説いているように思われます。
 とりわけ役所や会社など組織の中に生きる人間にとって、この心がけは大切です。今は自己PRの時代ですが、自分の能力や業績のPRに成功して脚光を浴びた人が、永続してその地位を確保している例は案外多くはありません。たいていの場合、自ら招いた周囲からの風当たりによって、些細な失点を理由に舞台を降ろされがちです。
 それからみると、強いておれが、おれがと出しゃばることなく、こつこつと実績を積んできた人は強い。空気か水のような目立たぬ存在でありながら、その人がいないことにはことが運ばない。上司も同僚もあいつのおかげでおれたちも務まっているのだと認めざるをえないようであれば、組織の中での地位はゆらぐことはないでしょう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第91項
    天薄我以福、吾厚吾徳以迎之。
    天労我以形、吾逸吾心以補之。
    天阨我以遇、吾亨吾道以通之。
    天且奈我何哉。

   天 我に薄くするに福をもってせば、吾 わが徳を厚くしてもってこれを迎(むか)へん。
   天 我を労するに形をもってせば、吾 わが心を逸にしてもってこれを補はん。
   天 我を阨するに遇をもってせば、 吾 わが道を亨(とお)らしめてもってこれを通ぜしめん。
   天 かつ我をいかんせんや。

(意味) もし天が私を冷遇して幸福を与えようとしないなら、私は人格を磨いて内面の充実を図ろう。
 もし天が私の肉体を酷使して苦しめるならば、私は心の平安によってその苦痛を免れよう。
 もし天が障害を設けて私の前進を阻むならば、私は道理の力によってそれを切り拓こう。
 そのようにすれば、天といえどもどうすることもできまい。

(解説) この項は菜根譚には珍らしく激しい、気迫に溢れたところです。
 中国人の思想では、天とは人の運命をつかさどる動かしがたい絶対の意志と考えられていますが、洪自誠はそれにただ従うことを拒否して、運命は人間の力で変えうることを信じて立ち向かう決意を示しています。運命を変えることに関しては、「易経」の根本思想に関わるところですが、これはまた別に解説の機会を持ちたいと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第9項
    夜深人静、獨坐観心、
    始覚妄窮而眞獨露。
    毎於此中、得大機趣。
    既覚眞現而妄難逃、
    又於此中得大慚忸。

   夜深く人静かなるとき、ひとり坐して心を観ずれば、始めて妄(もう)窮まりて真(しん)独り露(あらわ)るを覚ゆ。
   つねに此の中において、大機趣をう。
   すでに真現れて妄の逃れ難きを覚ゆれば、また此の中において、大慚忸(ざんじく)をう。
     (大機趣:応用自在な心のはたらき  大慚忸:根本的なざんげの気持ち)

(意味) 夜が更けて人々が寝静まったとき、ただ独り正座して自己の内心を観照すると、初めてもろもろの妄念が消え静まって、ただ自性清浄の心だけが現れてくるのを覚える。 常にこのような観照の折りにのみ、応用自在な心のはたらきをつかむことができるのである。
 かくしてすでに清浄な心が現れても、妄心の全く去りがたいことを悟ると、そこでまた大懺悔の心を生じ、成道への発心を生ずる。

(解説) あまりにも忙しすぎる現代生活の中では、独り、みずからの心を見つめるという機会はなかなか得られそうもありません。また、日常の世間づきあいでは、知らず知らずのうちに、自己合理化、自己弁護のクセが身について、自分自身のいいかげんさを意識もせずに過ごしてしまいがちである。
 だからこそ、ときとして外界の刺激を断ち切り、偽らぬおのが心を直視する機会をもちたいものです。
 自己合理化、自己弁護の心を捨てて、日ごろの言行を振り返るならば、お互い、冷や汗の流れることだらけではないでしょうか。
 しかし、私たち凡人としては、そのありのままの自分から再出発するほかはありません。辛いけれども自分のずるさ、卑しさをさとることが、人格を磨く出発点となります。一度、水底の砂に足がつかないことには、渾身の力で水面に浮かび出ることはできません。
 冷徹な自己認識から生まれる前進への意欲と自信、それが洪自誠のいう「大機趣」でありましょう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 前集 第41項
    念頭濃者自待厚、待人亦厚、処処皆濃。
    念頭淡者自待薄、待人亦薄、事事皆淡。
    故君子居常嗜好、不可太濃艶、亦不宜太枯寂。

   念頭濃やかなる者は、自ら待つこと厚く、人を待つこともまた厚く、処々皆濃やかなり。
   念頭淡き者は、自ら待つこと薄く、人を待つこともまた薄く、事々皆淡し。
   故に君子は居常の嗜好、はなはだ濃艶なるべからず、またよろしくはなはだ枯寂なるべからず。

(意味) 自分にも他人にもこまやかな配慮をはたらかせ、なにごとにも行き届いている人物がいる。そうかと思えば一方には、自分も他人もいたわらず、なにごとにもあっさりした態度をとる人物もいる。
 行き届きすぎてもいけないし、あっさりしすぎてもいけない。君子はそのような生活態度を貫くべきだ。

(解説) 自分を大切にし、人にも至れり尽くせりで万事に行き届いている人物がいる。かと思えば自分のことは一向にかまわず、人のことにも無関心な人物がいる。
 しかし、どちらも行き過ぎるのは感心しません。あまりに親切すぎる人は、とかく相手の立場を考えずに、ありがた迷惑な善意の押しつけをしがちです。また、人に対する期待感が強くて、冷淡だ、不親切だと不満を抱くことが多いように思います。
 そうかといって、あまりに淡々としすぎているのも考えものです。「人、生まれて群れなきこと能わず」(荀子)で、社会的存在である人間は、所詮、一人では生きられません。お互いに補い合い、助け合う中にこそ、この世に生きる生きる喜びがあるのではないでしょうか。
 干渉過多を招くべたべたした関係に陥らず、さりとて、てんでんばらばらに孤立することもなく、ほどほどの親密さと、ほどほどの距離を保った人づきあいというのは、意外とむずかしいものです。